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2021/07/10

ハブヒロシ・ロングインタビュー「息をして、生きている。」(『1/f』vol.9 掲載記事)

ハブヒロシ・ロングインタビュー「息をして、生きている。」(『1/f』vol.9 掲載記事)

音楽家として、丹田呼吸法普及会の理事長として、

伝統芸能の伝承活動をする者として。

「ハブさんって何者なんだろう?」

丹田呼吸の世界で知ったハブさんの呼吸との向き合い方に

耳を傾けていたら生きかたの輪郭が少しずつ見えてくる気がした。

岡山県高梁市でのロングインタビュー。

期間限定で一部の記事を公開中です。(7/10〜7/30までの掲載)

 

話し手:音楽家・遊鼓奏者/NPO法人 丹田呼吸法普及会 理事長 ハブヒロシ

聴き手:長尾契子

 

 

 

 一、自己内省を考える。

 

 

〈行〉が分かれば理論も分かる。

――丹田呼吸に出合った時のことを聞かせてください。

 

「今はNPOを立ち上げて、僕が理事長に就任し、こうして教えてますけれど、当初の調和道丹田呼吸は老人サロンのようなところで、閉じたイメージもあって入りにくかった。僕は割と気にせず突入していくタイプですが、多分ちょっと浮いた若い人って感じだったろうな」

 

――第一印象は?

 

「敷居は低い。だけど裾の尾は広いし、奥は深すぎる。ハマりましたね。呼吸は宗教や思想的なところまで繋がることが分かって。僕は東洋思想、特に仏教が好きですが、東洋思想では修行と呼吸はセットです。空海の書物を理解したい時も呼吸法をやっていた方がすんなり入ってくる。お釈迦様も呼吸と瞑想をして悟りを得たように〈行(ぎょう)〉が分からなければ理論も分からない。そういう面からの探究も深まりました」

 

 

瞑想は宗教ではなく方法のひとつ。

――瞑想の歴史は、呼吸の歴史でもあるんですか。

 

「そうです。西洋にも瞑想はあります。キリスト教やイスラム教も好きで結構勉強しましたが、西洋の文豪や芸術家も実践していたそうです。それを体系化したのが東洋だった。違いはありますが、基本的に瞑想は人類共通のものであり、方法の一つです。最近おなじみのマインドフルネスと同様に、宗教そのものではなく方法なんですね。宗教がそれを活用している側面があります」

 

――確かに物を書いたり、芸術活動するということは、自分の中が散らかっていたらできないことですよね。一種の瞑想状態に入らないと。

 

「哲学者はよく散歩するって言いますよね。散歩も軽度の瞑想です」

 

――歩行禅という言葉を聞いたことがあります。無心になる、フロー状態に入る、集中力が高まるなど、いろんな言い方があると思いますが…。

 

「一体になる感覚とも言えます。または、最も小さなものに価値を感じられるということかもしれません。最近では、呼吸を楽しむということが人生において、もの凄い力になることを感じているんです。今、一番伝えたいことです」

 

――現代人の私たちに丹田呼吸を勧める理由はなんでしょう。

 

「自己内省できることですね。大袈裟な言い方をすると、自己内省は一人ひとりにとっての救いだと思うんです。例えば仏教的な概念では、自己内省できないことが苦しみの原因とされていますよね。それができないまま〈我〉の世界を彷徨う苦しみ。もちろん生きる限り我は無くならない。でもこの構図だけでも分かれば、ずっと楽になることもある。それに気づく一つのきっかけと受け取ってくれたらと思っています」

 

 

絶対に先行研究。

――少しスピリチュアルな香りのするエクササイズ的なアプローチのものなど、今、自己内省法みたいなものは周りに溢れているように感じます。一方、丹田呼吸には独特のずっしり感がある。自分が東洋の脈々とした歴史の中に位置づけられている感覚というか。

 

「僕がやっている研究(ハブさんは呼吸の研究もしている)の世界では絶対に〈先行研究〉と言って過去の人がどのくらい研究されているのかを確認した上で今の研究を継ぎ足していく方法を採ります。今の人が考えつくよりもずっと研ぎ澄まされた感覚で身体と向き合った先人たちが体系化したものが既にあるわけです。それを学んだ上で自分なりのやり方を模索するんですが、そんな余計な付け足しなんか必要ないほどずっしりしている。その厚みのことかもしれません」

 

――なんだか壮大ですね。

 

「それを学ぶだけで凄いことだと思う。とても古いものなので、今の人にはむつかしすぎることがほとんど。だから僕たちが翻訳していかなくちゃいけないと思っています」

 

 

 

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 二、都会と呼吸。

 

 

都会でどう呼吸と向き合うか。

――都会に暮らしていると、呼吸と向き合うことがなかなか難しいと感じます。五感から入ってくる情報量が多すぎて、頭で考えることもいっぱいあって、身体のことがおざなりになってしまう。 臨済宗再興の祖であった禅僧、白隠さんの著した『夜船閑話(やせんかんな)』にある〈心火逆上〉(※しんかぎゃくじょう:頭に血が昇るのぼせ状態のこと。ものを考えすぎたり精神を使いすぎると起きると言われる。)の考え方を知った時、これは現代人のことを指しているんじゃないか、と思いました。

 

「そうでしょうね。〈上虚下実〉とは正反対の状態です」

 

―― 一方で、「だから都会の人はダメなんだ」といった、都市生活を断罪するような考えに触れると、生活上そうせざるを得ないんだよなと哀しさや反発心が起きたり。

 

「大変だからこそ必要なんですね、ていねいに呼吸することが。もちろん住んでいるところは問いませんし、都会の人にこそお勧めしたいです」

 

――ZOOMでの講習を受けた時に、一日5分の音声(※ハブさんはクラス最終日、日々簡単に丹田呼吸に取り組める5分間のオリジナル音声を受講者たちに配った。)はやりやすいと思いました。

 

 「現代の生活リズムに合わせて音声をつくれたらと思ったんです。以前は30、40分やるのが普通でした。明治大正昭和だったらできたかもしれないけど、ほとんどの人は5分でも長いって思う。その僅かな時間にも掴めるものはあるはずですよ。5分だけでも呼吸と向き合うって、その人にとって大きいことだと思うんです」

 

――健康にも良いですしね。

 

「そうそう。丹田呼吸は瞑想的なことだけじゃなく、身体的なものとしっかり繋がっているから、内臓系の調整にも効きます。僕も昨日の胃もたれがどんどん治ってきたし(笑)」

 

――オンラインクラスでは、東京の人とか、岡山の人とか、全然違う背景を持った人が老若男女同時に呼吸に励んでいます。都会や田舎の垣根を越えていますね。

 

「興味のある人には出し惜しみしないでどんどん伝えたいんです。伝え方はまだ完璧じゃないんですけど。都会の否定の話に戻ると、完全に否定できるものってどこにも無いんじゃないかなって思うんです。もちろん度合いはあるけれど、どれも役割がありますよね。都会の人がいるおかげで成り立っていることもいっぱいある。それぞれいいところを活かし合って、ダメなところは変えていく」

 

――都会から田舎に移住したハブさんからその言葉を聞くと新鮮です。 

 

「確かに一部では田舎理想主義ってあると思うんですけど、実際に移住してみて『ここは欠点だな』って思うところは言うまでもなくあります。同時にいいところもたくさん。田舎はユートピアじゃない。田舎の欠点には都会の良さを取り入れていけば良いのだし、逆もまた然り。田舎は大変で、愉しい。都会も大変で、愉しいってことかな」

 

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取材後にハブさんが連れて行ってくれたのは、祇園寺にそびえる樹齢約1200 年の大杉だった。思わず足がすくむような圧巻の力強さと、清廉な空気が周囲に漂う。祇園寺は、高梁市巨瀬町にある真言宗善通寺派の別格本山寺院。弘仁3年(812年、空海(弘法大師)の創建と伝えられる。空海がお手植えした杉として、「天狗大杉」と呼ばれ、県指定天然記念物に指定されている。生命力が漲ってくるような、静けさがある。

 

 

〈方便〉をつかう。

――丹田呼吸で一番大事にしていることは何でしょうか。

 

「一連の呼吸を終えた後に『反省と感謝』って言って、しばらく黙想する時間があるじゃないですか。あれに尽きると思うんですよね」

 

――実は最初に体験した時から、あの絶妙な間の存在が、呼吸と同じくらい気になっていたんです。

 

「ハハハハ(笑)。 説教くさいかもしれないんですけど、実はあれが核なんです。反省って、ごめんなさいっていう意味じゃなく、見つめていくことです。その先に全部繋がる感覚になるというか」

 

――実際にさっきまで外界に漂っていた酸素が自分の一部となり、同じく一部だった二酸化炭素がまた外に出ていくわけですから自分と世界の境界線が一体どこにあるのか、厳密に分けることが正しいのか、考えさせられます。

 

「世界と自分が一緒になっちゃうことをとても深いレベルで感じ取ったのがお釈迦様だったんじゃないかなと思っています。きっかけは呼吸であって、苦行じゃなかった。単純に集中することって、人の幸福度を め満足感を生むと言われていますよね」

 

――マルチタスク、一度にたくさんのことをやると脳がとても疲れると以前本(※参考書籍:アンデシュ・ハンセン『スマホ脳』久山葉子[訳]新潮新書 2020年)で読みました。

 

「あ。今、僕まさにそれです。すんごいマルチタスク生活(笑)。そうせざるを得ないですよね」

 

――マルチっていうと、いろいろなことがなんでもできるイメージですけれど、それだけじゃないですね。専門職だけでは生きにくい時代だし、複数のものを同時に生業としている人も多いこの時代では、手段として選んでいる。先ほどの都会の話とも繋がってきます。 

 

「大切な概念の一つに〈方便〉というものがあります。元々は仏教用語で、人を真実の教えに導くために仮にとる便宜的な手段のことを言いました。転じて今はある目的のためにとる便宜上の方法のことを指して使われていますよね。その言葉のように、これが正しい唯一のやり方だ! じゃなくて、それぞれに合ったやり方で取り組むのが肝要かなって。都会で生きていくことがその人にとって大事なことをやる上で必 なら一つの方便として大切だと思うんです」

 

――マルチであることも方便の一つということですね。

 

「極端に考えれば、仙人みたいな生き方が一番ナチュラルなのかもしれない。でも、呼吸を通して周りのものと繋がる感覚が生まれると、最終的に自分一人で生きているわけじゃないことに行き着く気がします。自分が楽しむためには、人も楽しんでいて欲しいし、それが周り回って自分も楽しいってことに気づいたり」

 

――呼吸によって得た「一体になる」反省と感謝のこころは、自己内省とどう繋がるのでしょうか。 

 

「その人なりの生き方の一部になるんじゃないかな。その一つに『単純にこのやり方が悪い』って言えなくなることがあると思います。楽しく生きたいと思った人が、仙人みたいに暮らす方法もあるけれど、政治家になる道だってあるわけです。政治は汚い世界というイメージがあると思うのですが、その立場を方便として利用した人の中に、人々と楽しく安全に暮らしたいという核がしっかりあるなら、政治家になることも一つの立派な方便です。都会に暮らすことが悪いことじゃなくて、都会に暮らして、やることがあり、それが自分にとって大切なことであれば、必要だということです」

 

――みんな都会に居るから、なんだかよく分からないけれど自分もそこに居て…という暮らし方も普通に選択肢としてありますよね。都会が自分にとって大切なのかを見極めるのも自己内省があった上で出来ることではないでしょうか。

 

「土地を見極めた上で住む。それはまた違う段階かもしれないね。なんだか分からないけど苦しんでいるっていうのも、何かに気づくきっかけになることがあり得る。すべての状況は、その人にとっての現実。それを日常とはまったく違う角度からアプローチする一つが、呼吸なんだと思います」

 

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【※1】藤田霊斎の著作にはどんなものがある? 藤田霊斎の主著は『調和道丹田呼吸法』 (調和道協会、1997年)。他にも数々の著作がある。ハワイへ出向くなど、呼吸法の海外への普及活動も積極的におこない、英語の著作も残されている。Yukei Fujita, “The law of harmony in health and physical culture”  The Chowado-Kyokai, 1928.  伝記は村野孝顕 編著『道祖藤田霊斎伝記 』(調和道協会、1982年) などがある。

【※2】丹田呼吸と医学研究。ハブさんによる医学研究と現在の活動。丹田呼吸に関して妥当性の高い医学研究はまだ十分ではなく、一つずつ医学的根拠を積み上げていく必要がある分野だ。ハブさんによる丹田呼吸の医学研究に「丹田呼吸による便秘改善効果の検討―無作為化比較試験によるパイロット研究(一般演題、第24 回日本統合医療学会学術大会 、土生裕 、日本統合医療学会誌  第13巻 3 号、2020 年」がある。現在ハブさんは、丹田呼吸以外では新型コロナウイルス流行の健康影響に関する研究もおこなっている。 

 

 

三、古いものの翻訳作業。

 

 

古いものをどう翻訳するか。

――丹田呼吸という言葉が生まれたのはいつですか?

 

「明治時代のお坊さん、藤田霊斎(ふじた・れいさい)によると伝えられています。彼の1908年の著作『実験修養心身強健之秘訣』に初めて用いられたと。古来からの呼吸法や調息法を体系化し、より分かりやすいようにいのちを吹き込み直した人物でもあります。 (上写真・キャプション【※1】を参照)きっかけは自身が病気になったことでした。呼吸法や修行法、養生法を研究して実践したら体調が改善した。自分だけのものにするのはもったいないと思ったんでしょう。現代では、より医学的な側面からの丹田呼吸の研究が必要だと思っています」

 

――ハブさんの医学研究「便秘改善効果の検討」(上写真・キャプション【※2】を参照)もその一つですよね。実際に健康状況が改善したとのことでした。藤田がおこなったような時代に合わせた翻訳作業は今も必要になっていますね。

 

「過去数百年スパンでの人類がほとんど経験したことのない社会構造の変化がまさに起こっている特殊な時代が今なんです。例えば僕が住んでいるこの家も、450年ほど代々受け継がれてきたんですけど、ついに途絶えたんですよね。で、僕が来た。数百年レベルで住み継がれてきた家屋の後継が不在、が当たり前の時代。江戸時代や近代以前のやり方ではマッチしません」

 

――私個人としても、原液そのままではとても受け入れる気分になれません。ハブさんのようなインターフェイス的存在がいなかったら丹田呼吸を体験してみようとも思わなかったかも。まずは骨のつまった史実を受け入れてから、今の時代に翻訳し直して、日々の生活に落とし込んで使っていく。これは、ハブさんが復活させた「長蔵音頭」の活動にも繋がっていくように思います。

 

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高梁市有漢町で消滅していた音頭を復活させ、2019 年にCDアルバム「長蔵音頭」を全国リリース。江戸時代に天明の大飢饉で苦しむ川関村を命がけで救った、綱島夫妻の歴史を今に伝える「長蔵音頭」は、「ヨイセッコラセー」などの軽快な掛け声や、当時の情景が目に浮かぶようなストーリー展開の歌詞が印象的だ。高梁を代表する盆踊り「松山踊り」、「ヤトサ」も収録。現代の人たちに向けて作られた、これからの伝統芸能音楽の可能性が詰まった一枚だ。

 

 「そうですね。昔は娯楽だった音頭や盆踊りも、デジタル主流の今の娯楽のかたちとはまったく違う。その中でどう伝えていくのか。一方で、分かりやすさばかりを強調すると、かんたんに薄まってしまいます。広めるために薄めるところは薄めつつも本質を見失わないことが大事。いつもその緊張感があります」 (『1/f』vol.9より)

 

 

 

 

音楽家・遊鼓奏者/NPO法人 丹田呼吸法普及会 理事長

ハブヒロシ

2007年 インドネシア国立芸術大学スラカルタ校留学。2008年 東京造形大学映画専攻卒業。パフォーマンスグループ「やちゃおう倶楽部」にてZOKEI賞を受賞。卒業後は、馬喰町バンド、SUNDRUM、チェ・ジェチョル、松崎ナオ、サム・ベネットらに出会い音楽活動に専念。関ジャニ∞など様々なレコーディングに参加する。2011年 セネガルの人間国宝ドゥドゥ・ンジャエ・ローズ・ファミリーのもとで修行。2012年 世界各地の芸能家たちと交流を深める一方で、芸能を深く探れば探るほど、自らの出自というのを見つめざるを得なくなり、自作の太鼓「遊鼓」を創作。2017年 日本を深く知るため、自らの生活をゼロから見直すために、東京から岡山県高梁市まで遊鼓を叩きながら歩いて移住。高梁市では小水力発電制作や山里の活性化、など、地域づくりに取り組む。また、自身が主催する「ハブライブ!ラブライフ!」では、あふりらんぽ、UA、OKI、など唯一無二の音楽家を迎え、今までにないコラボレーションが生まれている。2019年 高梁市有漢町に伝わる音頭を復活し、CDアルバム「長蔵音頭」を全国発売。2020年 倉敷芸文館にて備中神楽と共演。現在は、岡山大学大学院医歯薬学総合研究科にて疫学研究に励みながら、100年以上続く丹田呼吸を現代に普及している。高梁市在住外国人らと新作映画を制作中。

  

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こちらは、最新号『1/f』vol.9「息をしている。」より、期間限定公開記事(07/09〜7/30まで)です。本誌では、この後にもハブさんのインタビュー記事が続きます。最新号『1/f』vol.9にて、ご覧いただけます。7月のオンラインショップ・オープンは【7/10(土)〜7/16(金)】です。詳細はこちらのバナーから。

 

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2021/07/10

「荒い息、詰まる息」 文・長尾契子(『1/f』vol.9 掲載記事)

荒い息、詰まる息 文・長尾契子

 

背骨担当者の一声。

 

 今日も西武新宿線に乗る。 車内の適当なスペースに身を滑り込ませると、ハンドバックの中をまさぐって携帯を取りだし、俯いてディスプレイ上に人差し指を滑らせる。「今のうちに返信を」と思う前に身体が動いた、その次の瞬間にはっとする。私の中に棲む〝とある担当者〟から「背骨のムダ遣い」といつもの囁きが聞こえたからだ。

 

 中学生の頃、習いごとのやり過ぎで腰椎にくっついている椎弓(ついきゅう)を疲労骨折し、長いコルセット時代を送った上、デザインを始めてからはストレートネックによる医者通いと、背骨と向き合う日々を送ってきたからだろうか。不必要に姿勢をこごめることを「背骨のムダ使い」と呼ぶようになった。

 

 ダンゴムシのように背を丸め集中しなくてはならないことは山ほどある。外出時くらいは身体を伸ばしておかないと、後で冷凍シーフードミックスのパックみたいにガチガチになっている。「ムダ遣いしたからだよ」と〝背骨担当者〟はつれない。こごめてはハッと伸ばし、丸めてはアッとねじる。そんな気遣いもむなしく呼吸は浅いままだった。

 

「現代人は姿勢が悪い」、とだれかさんが呟いた。聞き慣れた言葉が耳の奥でこだまし、いくつもの声となって混じり合ったのちに消え、やがてのっぺらぼうになった。

 

 一方で、都会の背骨ムダ遣い生活から離れてゆったりと呼吸がしたくなり、自然豊かな地方の旅先や、坐禅をするために訪れた古都で「現代人は姿勢が…、息が…」といつものフレーズを耳にすると、早々に坐布(ざふ)から腰をずらしたくなる。都市のすみっこで生かされてきた者として言い返したくなる。耳に突っ込んだイヤホンも、視界を狭めるためにかけたサングラスも、目深に被った帽子も、俯き加減の姿勢も何もかも、街に飽和している情報やノイズから身を守るためのプロテクターではなかったか。

 

 私には密かに〝尊敬する背骨〟を持つ人がいる。専門学校時代、都内某所にある老舗のとんかつ屋で見た、その店の主人である彼の背は、長年の仕事柄か、前傾したいかり肩から伸びる首が前方に向かってほぼ直角に曲がっていた。カウンターの中ですっくと直立している姿を一度も見たことがない。はぜる油の中で、徐々にきつね色に彩られていく無数のとんかつを見つめ続けてきた職人の背には、息を呑むような気魄があった。〝姿勢が悪い〟という言い方を無効にしてしまう背骨だった。千切りキャベツの缶にしわしわの手を器用に突っ込む姿を見ながら、淡々とした深い呼吸が手際の良い作業と呼応し合っていることに気づいた。

 

 姿勢そのものに良し悪しが言えないように、息が上がったり詰まったりすることにも良し悪しはないのではないかと気づいたのはこの時だった。丁寧で深い呼吸がもたらす効用は、先人たちによってすでに実証され、極められてきた。今日は少し視点を変えて、ふだんは陽の当たらない、詰まる息、荒ぶる呼吸を東京のすみっこで取り上げてみたい。

 

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『人生の哲学』渡邊二郎[著](角川ソフィア文庫)渡邊が放送大学の教員時代に作成した印刷教材の中で、1998年に発刊したものが文庫版として2020年に再版された。 

 

 

 

詰まる息ーー「愛」の語源。

 

 息が詰まるのはどんな時だろう。初対面での打ち合わせや、苦手な人にどうしても会わなければならない時、不安や恐れに囚われている時などだ。一方で、好きなことをしている時や、愛する人と一緒に過ごす時間にも呼吸が早まり、息が上がったりする。愛する人と一緒に居るのは、安心と喜びに包まれた幸せな時間のはずなのに、苦しくなることさえある。呼吸の乱れという身体の現象が、心の状態によって引き起こされることは、心身が分かち難く結び合っていることを示している。息は心と身体をつなぐ窓口の役目を果たし、心の複雑を映す。この不可解なあべこべ状態が、「愛」という漢字の語源の中に、すでに刻み込まれていることを知った。

 

 実存思想、現象学、ドイツ古典哲学など、多岐にわたる哲学分野の研究者として知られる渡邊二郎(1931~2008)の『人生の哲学』(角川ソフィア文庫、2020年)から引用してみる。

 

 渡邊は、誰もが直面する「生」の問いを「死と生を考える」、「愛の深さ」、「自己と他者」、「幸福論の射程」、「生きがいへの問い」という5つに絞り、古今東西の哲学・文学・詩歌などを多彩に引用しながら平易な言葉で解明していく。「愛の深さ」の章では、「愛」という概念そのものを、漢訳仏典に見られる漢字の語源に着目し、解像度を高めながら検証している。

 

愛という字は、もとは、「旣」(き)と「心」とを合わせてできた字であるとされている。「旣」は「皀(ひゅう)」(食物)が喉に閊(つか)えて咽(むせ)び、息が詰まることを表した字である。したがって、それと「心」とを合わせた「愛」という字は、「心が強く打たれて息が詰まるような思いになること」を表していたとされている。

 

 ではどうして、息が詰まるのだろうか。

 

それは、「歎」(たん)と同様に、心が強く動かされて、嘆くありさまを示していたわけである。転じて、「愛」は「慈しむ」という意味にも使われたという。この「旣」と「心」とを合わせた字を簡略化して、さらに「旡」(き)と「心」とを合わせた文字「㤅(あい)」が作られたという。この字は、「元気のない意」を表したとされる。この字の下に、「静かに行く意」を表すところの「夂(ち)」という字を加えてできた文字の変形が、今日の「愛」という字であると言われている。したがって、「愛」は、「元気のない足どりで行くこと」も表すとされる。

 

 愛とは「心が強く打たれて息が詰まるような思い」になり、「元気のない足どりで静かに行く」ことに他ならない。人が思い悩む代表的なシーンがコラージュのように一文字の中に刻み込まれている。「愛の思いが深くなった時、人は、胸が閊(つか)えて、息苦しくなり、あまりにも重い心を抱いて、元気がなくなり、蹌踉(ふらふら)として、足を引き摺り、行き悩んでしまう」と記している。

 

 愛についてイメージされがちな、朗らかで若々しい姿はここにはない。「心の奥底に、分裂や葛藤が潜み、人間の魂が、一筋縄ではゆかない多様な要素」を含み、「自己のうちの二元的な対立や矛盾が自覚される」から苦しい。渡邊にとって「愛を知る人」とは、「愛を考え、深く悩む人」であった。

 

 「愛」という一字は実に複雑な遍歴を持つ語であり、中国で、日本で、その成り立ちは諸説ある。明治以降、外来語が入ってきた際もさまざまな解釈と使われ方をしたし、現在もその変化は続いている。その中の一つ、漢訳仏典に記された中に、「食べものが喉につかえて咽び息が詰まる」身体の様相にたとえて愛に関して人の心のありさまを映し出そうと苦慮した、いにしえの人々がいたのだと思うと、はるかな気持ちになる。

 

 

 

荒ぶる息ーー能「山姥」より。

 2020年の夏に禅僧の藤田一照さんと能楽師の安田登さんによる対話講座が新宿で開かれた。会のテーマは「〈たましひ〉という深淵に触れる」。「〈たましひ〉をどこかに置き忘れたような生き方を強いられているような現代において、われわれの先人たちが〈たましひ〉という言葉に込めたリアルな情緒を、あらためて味わい直す努力が必要ではないか」(パンフレットより)。そんな問いから組まれた講座は、古代文字、日本の古典、西洋文学、能、禅など、あらゆる知見を互いに持ち寄って掘り下げながら、時にユーモアで室内をどっと沸き立たせつつ、〈たましひ〉とは何かを2時間ノンストップで対話しづつける内容。2019年の秋に開かれた第一回に参加した私にとっては(『エフブンノイチ  8号』のあとがきを参照)前回の続編となったが、どちらも「〈たましひ〉の語源」が導入となった。〈たましひ〉は英語では spirit(スピリット)。ラテン語のspirare(スピラーレ)が語源で、元々〈息〉を表している。

 

 こうして〈息〉を足がかりとして進む中、安田さんは禅の仏教学者、鈴木大拙がおこなっていた能研究の一部から『山姥』という演目を紹介される。大拙はこの能に登場する山姥の姿に、日本で非言語的なかたちで伏流してきた「愛の原理」が投影されていると考えた。

 

 まず、山姥伝説を曲舞に仕立てて演じ評判を得た都の遊女、百魔山姥(ひゃくまやまんば)(ツレ)が登場する。彼女は供の者(ワキ・ワキツレ)を連れて善光寺詣に出かけた。上路越(あげろごえ)の難所に差し掛かったところで、にわかに日が暗くなってしまう。そこに一人の女(前シテ)が現れる。女は「自分こそが本物の山姥である」と明かして、遊女に「供養として曲舞を奏して、私の迷妄を晴らしてほしい」と告げた後、どこかに消えてしまう(中入)。辺りは元のように明るく戻った。所の者(間狂言)が山姥の正体についての俗説を語るが、その荒唐無稽ぶりに供の者から一笑に付される。

 

 夜になった。月光澄み渡る中、遊女が曲舞を舞っているところに、あの山姥(後シテ)が真実の姿で登場する。髪は雪を戴いたようにのびきった乱れ髪、朱色で鬼瓦のような恐ろしい顔相をしている。自らの境涯をあたりの深山幽谷になぞらえて物語り、雪月花を愛でる山廻りの様を現じてみせると、再びいずこともなく消えていってしまう。

 

 恐ろしいイメージが先行しがちだが、能に登場する山姥は、けっして「鬼」、「悪いもの」といった単一的な存在では描かれない。山姥は自ら省察する。「そもそも、山姥は生まれた所も、住む所も、定かではありません。雲や水のように、どんな山奥でも行かない所はありません。だから人間ではない。雲のように変幻自在に、あるときは鬼女の姿として現れる」鬼女の輪郭を持ち、山々を飛び回り続ける、広漠として際限のない大自然そのものの象徴なのだ。一方、時には人々を救う身近な存在でもあった。「人間たちとの交わりはある時は山人の重き薪に肩を貸し月の出ともに里までも送って出ることもある。またある時は機織の女の部屋に入って、鶯のように糸を紡いで、手伝って人を助けることばかり。姿は人の目に見えず『目に見えない鬼』がやったことと言われて、この世は皮肉なもの」と自分の境涯を語り嘆息するシーンは物悲しい。(川西十人『能の友シリーズ 山姥』白竜社より)

 

 大拙はこの山姥の姿に「愛の原理(the principle of love)」を見出した。大拙が残した『禅と能』は(※本書は絶版となっているため要約されたレジュメより引用)には「山姥といふのは、文字通りには『山の老女』といふのだか、それは吾々誰の心にもひそかに動く愛の原理を現してゐる(represents the principle of love secretly moving in every one of us)」と記されている。ここでも若々しく、瑞々しいイメージではないのだ。このようなイメージは表面的結果に過ぎない、普通自分たちは意識せずに、終始誤用していると大胆に宣言している。

 

「愛そのものはよく働く農婦のやうに、やつれた姿をしてゐる。他のものの爲に苦労を重ねるところから、その顔は皺だらけで、その髮は眞白だ。解決しなければならぬ難問を多く身に附けてゐる」

 

『山姥』の語り部は、愛のこの観念を作品の中に盛り込み、山姥を、自然と人間の背後にある眼に見えない力としたのではないか、大拙はそう考えた。このような愛は、荒々しい息遣いで舞い続け、もはや人間のあいだに留まることなく、やがて善悪を越えた大自然の力として飛翔し、最後には人々の手の届かない未知の世界まで飛び去っていく。

 

 LOVEという言葉がキリスト教を背景とした西洋から入ってきた明治期、この言葉に最初に出合った日本人たちは、どう訳そうか頭を抱えたに違いない。結果、「詰まる息」、「荒い息」を通奏低音として含む語源を持つ漢字が目の前に残ることになった。今こうしている間も、自分の知らないあちこちで寄せては返す波のように人々の胸が愛にふくらんだり、しぼんだりしているかと思うと、少し空気が足りなくなってきそうだ。

 

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文・『1/f(エフブンノイチ)』編集人

長尾契子 Keiko Nagao

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こちらは、最新号『1/f』vol.9「息をしている。」より、期間限定公開記事(07/09〜7/30まで)です。その他、「荒い息」にまつわる映画作品を紹介しています。最新号『1/f』vol.9にて、ご覧いただけます。7月のオンラインショップ・オープンは【7/10(土)〜7/16(金)】です。最新号の詳細はこちらのバナーから。

 

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2021/07/09

[ 7月のオンラインショップ ]7月9日(金)〜16日(金)オープンします。

[ 7月のオンラインショップ ]7月9日(金)〜16日(金)オープンします。

最新号 vol.9の2回目の予約販売終了後にも、お問い合わせをお寄せいただきました。貴重なお声をありがとうございました。7月も期間を限定してオンラインショップをオープンいたします。よろしければ、ぜひお立ち寄りください。

 

【オンラインショップ オープン期間】

7/9(金)18:00 ~7/16(金)21:00までご注文受付

【発送】ご注文いただき次第随時発送予定です。

 

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最新号の付録/第二弾の「丹田呼吸ポストカード gray.ver」は予定枚数終了しました。7月から新しくアクアカラーインク ver.を同封しております。暑中見舞いや夏のおたよりにどうぞ。

 

尚、8月以降はオンラインショップはしばらくお休みさせていただきます。どうぞ、よろしくお願いいたします。ショップは下記バナーからご案内です。

 

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tiny publisher ロンデル

2021/07/02

[ あたらしいお取扱店のおしらせ ]ASOBU KAPPAN/Book & Coffee coyomi(兵庫・淡路島)

[ あたらしいお取扱店のおしらせ ]ASOBU KAPPAN/Book & Coffee coyomi(兵庫・淡路島)

『1/f(エフブンノイチ )』の

あたらしいお取扱店をご紹介します。

 

味のある活版印刷の紙ものや

選書した本を届けておられる

「ASOBU KAPPAN」さんでの

お取り扱いがはじまりました。

 

【ASOBU KAPPAN】

https://asobukappan.stores.jp

 

店頭販売では、淡路島にあるカフェ

「Book & Coffee coyomi」さんにて

vol.6〜最新号まで並べて

いただいております。

 

【Book & Coffee coyomi】

https://home.tsuku2.jp/storeDetail.php?scd=0000144507

 

おいしいコーヒーとともに

本を読みながら、

ほっと一息ついてみては

いかがでしょうか。(Londel)

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